天安門事件、振返りーー30年前、民族の自由と安定のために奮闘した方々へ@2019

2021年6月3日

事態拡大
学生の絶食は全国の支持を得て、ソ連訪中を報道する西側の記者達は残って、学生運動を報道し続けた。 各地の学生は北京へ運動を参加、学生以外、北京の各業界、公務員を含めて、デモを興しました。
地方都市も抗議デモ多発し、香港、台湾から、学生への物質を支援、応援しました。

趙紫陽最後の講演
事態拡大により、中共TOPのプレッシャーが増大した。
趙紫陽の妥協な対応で事態の拡大になり、党内の反感を招き、孤立された。
5月19日の夜明け、温家宝は随行し、趙紫陽は天安門広場で抗議中の学生に会い、最後の講演を行いました。

5月19日、鄧小平は会議を主催し、戒厳が問題解決の唯一の選択と言い、李鵬は20日から北京市の戒厳と発表して、5大軍区の30師団の25万兵士は北京へ進入するようにしました。
但し、軍は北京へ進む途中、多くの民衆に止められ、動かず、衝突なく兵士達に水や食べ物を与えた。
5月20日、学生側がデモで李鵬を追い落とすと主張 しました。

毛沢東の像は汚された
5月23日、魯徳成、喩東岳と余志堅は湖南から北京へ行き、中共政権の転覆を主張したが、学生の支持を得られませんでした。
天安門にある毛沢東の像をペンキなどで汚し、高自聯(学生)はこの3人を警察署へ送った。同時に学生内部で、王丹は武力鎮圧を懸念し、撤退を主張、強硬派の学生に反対され、学生内部の対立が激しくなりました。

5月29日、中央美術学院等、6大学の学生達は、高さ10mの民主女神の像を完成し、天安門広場、毛沢東の像の対面に立上げた。
6月2日、学者劉暁波、高新、周舵と台湾芸人侯徳健は広場へ行き、2回目の絶食を興し、内部紛争を止めようと図った。この4人は4君子と呼ばれた。前回の絶食した学生らは休養のために運ばれました。

最後通牒
6月2日夜、一台の軍用車が事故を発生し、3人の死亡になりました。意外な事件だが、学生らは軍の侵入を懸念し、各入り口に障害物を設けた。
6月3日、学生と市民は武器持ちの私服軍人を捕まり、北京警察へ送還した。
同日夜、中央テレビニュースは緊急通告:戒厳部隊は全ての手段を採用すると発表した。
静粛担当の解放軍部隊は各方向から北京へ進入したが、市民に止められた。

軍の進入
6月4日、 市民に止められ進行できず、一旦撤退した軍隊は、武装して再び北京市へ進行しました。市民側は、前回の止めた経験があり、厳戒を無視して再度軍を止めようとした。西側から侵入した38軍は実弾で市民に向けて発砲した。

木樨地事件
38軍は市民に発砲後、市民は軍に対して石、レンガや燃焼物を投げ、道路を妨げるようとして、車両を燃やした。軍は天安門広場の5km離れた木樨地に止められた。軍人は市民と付近のアパートに発砲しました。
「天安門母親運動」の調査結果より36名の死者がでました。軍も犠牲者を発表しました。

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